黒小川渓谷には、その名とは裏腹に水の音がほとんどなかった。
梅雨が過ぎて小川は底を露わにし、黒い砂利の間を指二節ほどの深さの水だけが流れていた。渓谷の東側は削り立てたような絶壁で、西の斜面には茨の茂みと丈の低い松が絡みついていた。荷車が通れる道は、その間の一筋だけだった。
カン・ムジンは絶壁の中腹に手のひらを当てた。
冷たい石の向こうに金属が感じられた。砂に混じった砂鉄、岩の隙間に埋まった黄鉄鉱、遠い昔に折れて土に埋もれた鏃まで、大きさも深さもまちまちの感覚となって指先に静かに引っかかった。
その中に、ドリアと共に打ち込んだ鉄の楔十二本が鮮明だった。
カン・ムジンは一つずつ状態を確かめた。楔の先は岩盤の目に沿って正確に食い込んでいたが、深く打ちすぎれば絶壁全体が崩れ、浅ければ先頭の荷車すら止められなかった。必要なのは人を襲う落石ではなく、道を断つだけの崩落だった。
「三本目が半寸ほど浮いています」
下の岩陰でドリアが鼻で笑った。
「ゴホン。それをここで感じ取るというのか?」
「槌の打ち方が荒かったので」
「誰のせいで昨夜から一睡もできんかったと思ってる」
ドリアはぶつくさ言いながらも三本目の楔を打ち直した。短く重い打撃が岩を鳴らし、鉄の先を岩盤の奥へ押し込むと、カン・ムジンの指先に引っかかっていた微かな揺れが消えた。
「これでいいです」
「鉄の味が分かるようだな」
ドリアは槌を肩に担ぎ、髭には石の粉が白っぽく降り積もっていた。
渓谷の上で鳥の鳴き声が三度聞こえた。
シルヴァナが定めた合図だった。
敵が見えた。
カン・ムジンは斜面を下りていった。ラカンは道端の涸れた小川の中にうずくまり、直してもらった短剣を力いっぱい握っていたが、傷ついた脚は相変わらず完全には伸びなかった。
「後ろの二人は俺のもんだ」
ラカンが言った。
「一人だけにしてください」
「なぜだ」
「戻るための脚を残さねばなりませんから」
ラカンの耳が後ろに倒れたが、反論しようとした口はそのまま閉じられた。
少し離れた場所ではローゼンが待機していた。罅の入っていた剣は一握りほど短くなっていた。カン・ムジンは亀裂を削り取り、鉱山から持ってきた炭素含有量の低い鉄を芯として継ぎ足し、急ごしらえの分だけ刃の硬度を落とす代わりに、衝撃を受けても折れないようにしてあった。
ローゼンが剣を抜き、最後に刃を確かめた。
「捕虜の荷車をまず切り離します」
「合図の前には出ないでください」
「承知しました」
その返事は端正で、前日まで残っていた迷いは見えなかった。
馬蹄の音が渓谷の中へ入ってきた。
まず現れたのは黒い甲冑を着た騎兵四騎だった。その後ろに槍兵が十二、鉄格子を巡らせた荷車が八台続き、荷車の合間には鉄の鎖に繋がれた捕虜たちが歩いていた。行列の最後にはまた槍兵と騎兵が付いていた。
普段の護衛の二倍を超えていた。
カン・ムジンは息を潜め、金属の動きを読んだ。
剣三十六振り。槍二十三。弩六。甲冑の内側に隠した投擲用の針十二本。荷車の車軸は魔界式の鋼で補強されていたが、不純物は多いものの熱処理が均一で、鉱山の下級兵が使っていた武器とは違った。
行列の真ん中には別の気配があった。
大きな魔族が一体、黒い馬の上に座っていた。角の間に銀色の装飾を巡らせた兜をかぶり、胸には縦に裂けた赤い目の紋様が刻まれていた。ローゼンが言っていたグリモア・バルガスの印だった。
魔族の騎兵が手を上げると行列が止まった。
早すぎた。先頭の荷車が楔の前に届くまで二十歩残っていた。
「左の斜面を捜索する」
騎兵の声が渓谷に響いた。
兵士六人が盾を掲げて散った。二人は涸れた小川へ、四人はカン・ムジンの潜む斜面へ向かった。伏兵を目で見つけたわけではなく、ただ疑いだけで行列全体を止めた判断だった。
精鋭を率いる者らしかった。
カン・ムジンは楔の位置と敵の間隔を測り直した。今絶壁を崩せば先頭だけが孤立し、待てば捜索兵がラカンを先に見つける可能性が高かった。
乾いた砂利を踏む音が近づいた。
ラカンは身を低くしたが、その剣先は揺れなかった。
斜面の上の松の枝が微かに傾いた。シルヴァナが弓弦を引いていた。
カン・ムジンは拳を握った。
絶壁の中の楔十二本が同時に震えた。
鉄の目を無理やり捻るのは、槌を打つのとは違った。台も金床もない状態で、カン・ムジンは各楔の柔らかい中心に力をかけ、硬い表面を梃子のように押した。十二本を一度に扱うとこめかみが疼き、指の骨の間に熱い針が食い込むようだった。
それでも方向は正確でなければならなかった。
人ではなく、道へ。
カン・ムジンが手を開くと、鉄の楔が半寸ずつ回った。
岩盤から鈍い破裂音がした。
騎兵が顔を上げた瞬間、絶壁の下部が道に向かって崩れ落ちた。人の頭ほどの岩が先頭の騎兵と荷車の間を叩くと馬が前脚を上げ、槍兵たちは盾を立てた。土埃が渓谷を呑み込んだ。
シルヴァナの矢が飛んだ。
最初の矢は後尾の騎兵の肩と首の間を貫いた。二本目は弩兵の手の甲に刺さって発射を防ぎ、三本目の矢は荷車を御す者の鞭を断ち切った。
「伏兵だ!」
ラカンが涸れた小川から飛び出した。傷ついた脚を引きずりながらも最初の一歩は速かった。捜索兵の槍が彼へ伸びると、ラカンは体を半ばひねって槍の柄を脇に挟み、引いた。前のめりになった兵士の兜と胸当ての間に短剣が潜り込んだ。
彼は二人目の兵士に飛びかからなかった。
カン・ムジンの言葉を守り、倒れた者の盾を奪って膝を立て、踏み止まった。
弩が鳴った。
黒い矢が三本、ラカンへ降り注いだ。
カン・ムジンは虚空へ手を伸ばした。鏃の鉄が指を引き寄せたが、飛来する軌道を正面から止めるには力も距離も足りなかった。彼は三本の矢の先を横へ押した。
一本は盾に刺さり、残りの二本はラカンの肩をかすめて砂利に突き立った。
ラカンが歯を剥いた。
「これは借りに数えねえぞ!」
「お好きにどうぞ」
カン・ムジンは道へ飛び降りた。
ドリアの槌が彼より先に甲冑を叩いた。鈍い音とともに魔族の槍兵が一人、横へ吹き飛んだ。
「ゴホン! 甲冑は厚いばかりだな!」
「右の関節は薄いです」
「もっと早く言え!」
ドリアが身を低くすると槍二本が彼の兜の上をかすめ、槌は下から上へ跳ね上がって一人の兵士の肘を打った。腕の防具がひしゃげて槍が落ちた。
カン・ムジンは落ちた槍を踏んだ。
足の下で鋼の目が感じられた。熱処理は良かったが、穂先と茎を繋ぐ部分にはリンの成分が偏っていて、冷たく脆い線をなしていた。
彼が爪先で力を押し込むと、穂先が木の柄から外れた。
カン・ムジンはそれを手で掴まなかった。手のひらを回すと鉄の穂先が地を滑って兵士たちの足首の間に入り込み、三人が均衡を崩した。
「今です!」
ローゼンが岩陰から出た。彼は倒れた兵士を越えて荷車の方へ走り、短くなった剣は狭い荷車の間でかえって速かった。一度受け、手首を回して槍の柄を流したあと、肩で敵を押しのけた。
シルヴァナが荷車の上に飛び降りた。
エルフの手が鉄格子を掴むと淡い緑の光が指先から広がり、道端の蔓が伸びて荷車の車輪に絡みついた。御者が剣を振り下ろそうとしたが、矢がその柄を貫いた。
「荷車の中で下がってください」
シルヴァナが捕虜たちに言った。
カン・ムジンは最初の荷車の錠前を感じ取った。掛け金三つと回転板一つからなる内部構造が、手のひらの中に収まったように鮮明だった。鍵なしに力で引きちぎれば鉄格子まで歪み、中の人を傷つけかねなかった。
彼が人差し指と親指を狭めると、錠前の中の回転板が回った。
カチリ。
扉が開いた。
しかし荷車の中の捕虜たちは動かなかった。首にかけられた鉄の輪と床の鎖を見ながら身を縮めるだけだった。逃げろという言葉を信じられない目だった。
カン・ムジンは次の錠前を開けた。
「出てください。道は我々が塞ぎます」
その時、黒い甲冑の騎兵が馬を駆った。
そいつは逃げる代わりにカン・ムジンへまっすぐ突進し、長い剣で土埃を裂いた。カン・ムジンは横へ避けながら腰の剣を抜いた。
二つの刃がぶつかり合った。
重さが違った。
手首を伝って衝撃が肩まで上がってきた。相手の剣は不純物の多い鉄を繰り返し折り返して弱点を散らした魔界の鋼だった。無骨だが、戦場で長く保つように作られた剣だった。
騎兵が馬を返した。
「目標確認。金属を変形させる人間」
その口調に驚きはなかった。すでに報告を受けた内容を照合しているようだった。
「グリモア将軍が貴様の生け捕りを命じられた」
カン・ムジンは剣を低く構えた。
「自分では来なかったようだな」
「将軍は消耗品一つの離脱よりも、生産体系の異常に関心をお持ちだ。貴様は有用な変数になり得る」
人を消耗品と呼んだ。
カン・ムジンの視線が騎兵の甲冑をなぞった。胸板は厚かったが、左の脇の下に修理の痕があった。別の合金の鉄板を当てて鋲三本で留めた急ごしらえの修理であり、衝撃が一方に偏れば鋲から抜けるはずだった。
カン・ムジンの口数が減った。
「人は材料ではない」
彼は一歩踏み出した。
騎兵の剣が横へ振るわれると、カン・ムジンは剣の峰で受けて流した。火花が目の前で散ると同時に、彼の左手が開かれた。
甲冑の修理用の鋲三本が外へ跳ね出た。
胸板が開いた。
カン・ムジンは剣を体の内側に寄せて短く突き、切っ先は開いた隙間を通った。騎兵の体が強張った。
「生け捕りは……効率的な提案だった」
そいつは倒れながらも声を張り上げなかった。
カン・ムジンは剣を抜いた。
「断る」
後尾で角笛の音がすると、残った騎兵二騎が隊列を立て直した。槍兵たちは荷車ではなく退路を中心に集まり、捕虜を取り戻す代わりに生き残った戦力と情報を保とうとする動きだった。
その瞬間、倒れた騎兵の胸の紋様が赤く光った。
カン・ムジンは剣を持ち上げた。
甲冑に埋め込まれた鉄板が熱を帯びていた。魔法の気配までは感じられなかったが、金属内部の温度が一定の円を描いて上がっていくことは分かった。
赤い目の紋様の上に半透明の形が浮かび上がった。
角張った角と後ろへ撫でつけた黒髪、軍服のように端正な甲冑が見えた。その姿はカン・ムジンより頭一つ大きく、その目は戦場ではなく数字の並んだ帳簿を読むように乾いていた。
「第7輸送隊指揮官の生体反応が消失したな」
渓谷の魔族たちが一斉に膝を折った。
「バルガス将軍」
グリモア・バルガスの視線が動き、カン・ムジンで止まった。少なくともカン・ムジンはそう感じた。
「報告と一致する。非認可の金属操作個体。人間の男性」
グリモアは開いた荷車と崩れた絶壁、倒れた兵士たちを順に見渡しているようだった。
「輸送隊の回収可能性は低い。残存兵力は記録を持って撤収せよ」
荷車の中からすすり泣く声がしたが、グリモアはそちらを振り返りもしなかった。
「積載資源は廃棄する」
残った魔族たちが腰から黒い玉を取り出した。荷車の下の油樽にも同じ金属装置が付いていた。カン・ムジンは即座にその構造を読んだ。薄い鉄の膜の中には、ぶつかれば燃え上がる鉱物の粉が隔壁を挟んで入っていた。
捕虜まで焼くつもりだった。
「ドリア! 荷車の下です!」
「見えとる!」
ドリアの槌が最初の油樽を荷車の外へ弾き飛ばす間、シルヴァナは蔓を動かして二つ目の樽を小川へ引き寄せ、ローゼンは三台目の荷車の下へ身を投げた。
魔族の兵士が玉を叩きつけた。
カン・ムジンは両手を握り締めた。
八台の荷車の下の鉄の膜が同時にひしゃげ、鉱物の粉を隔てていた隔壁同士が貼り付いた。頭の中が鳴り、鼻先から熱いものが流れたが、一つでも取りこぼせば荷車が一台燃えた。
八つ目の鉄の膜が持ち堪えた。
厚さが違った。
カン・ムジンは歯を食いしばり、手首を捻った。鉄の膜の最も柔らかい目を探して力を押し込むと、短い破裂音とともに装置が地面に落ちた。
火は点かなかった。
ラカンが盾で玉を持った兵士を押し倒した。ローゼンは荷車の下から這い出て剣を構え、シルヴァナの矢が退路の岩を叩くと精霊の風が土埃を巻き上げた。
魔族の残存兵はそれ以上戦わず、土埃の中へ身を翻して渓谷の南へ撤収した。
グリモアの姿は最後まで残っていた。
「資源の所有権を主張するのか」
彼がカン・ムジンに尋ねた。
カン・ムジンは鼻血を手の甲で拭った。
「あの者たちは誰のものでもない」
「非効率な観念だな。貴様の行動で国境の輸送量は一時的に減少するだろう。代替経路を算定する」
「また送れば、また断つ」
グリモアの姿がしばし止まったが、表情は変わらなかった。
「ならば変数ではなく障害物として分類しよう」
赤い光が消えた。
渓谷には負傷者の呻きと、荷車の中の荒い息遣いだけが残った。
カン・ムジンは剣を納め、最も近い荷車へ近づいた。首に鉄の輪をはめた人々が彼の手を避けて後ずさった。人間もいたし、尖った耳を切り落とされたエルフもいたし、毛皮があちこち剥げた獣人もいた。
一番奥に小さな子どもが一人うずくまっていた。
灰褐色の髪の間から短く丸い耳が覗いていたが、どの種族かは分からなかった。子どもはカン・ムジンではなく、彼の腰回りと手を交互に見て、武器があるか、殴る物を持っているかをまず確かめた。
カン・ムジンは荷車の外に剣を置き、空の手を見せた。
「出てきていい」
子どもは動かなかった。
カン・ムジンは急かさずに錠前を開け、首の鉄の輪を一つずつ外していった。留め金の舌を起こすたびにカチリと音がして、捕虜たちはその音がするたびにびくりとした。
最後に子どもの番が来た。
鉄の輪が小さすぎて、育つにつれ首に食い込んだ跡が赤く腫れていた。カン・ムジンは金属の厚みを確かめてから両手で輪を包んだ。
「冷たいです」
子どもが囁いた。
初めて聞く声だった。
「すぐ終わる」
彼は輪の温度を上げなかった。力で広げれば肉が擦れるはずだった。代わりに留め金の中の小さなばねだけを柔らかく押したが、汗の染みた鉄は錆びついて渋かった。カン・ムジンは目に沿って錆を剥がし、掛け金をゆっくり押した。
カチリ。
輪が開いた。
子どもは首を押さえたままカン・ムジンを見上げた。
「また、するの?」
「何をだ」
「また、はめるの?」
カン・ムジンは鉄の輪を床に置いて足で踏んだ。輪が平たくひしゃげた。
「はめない」
子どもはひしゃげた鉄を長いこと見つめてから、慎重に荷車の外へ降りてきた。裸足が砂利に触れると体がよろめいた。
カン・ムジンが手を差し出した。
子どもはすぐには掴まなかった。手のひらと彼の顔をしばらく交互に見てから、指を二本だけ引っかけた。
小さくて冷たい手だった。
シルヴァナは別の荷車の負傷者を診ていた。弓を握る手はいつものように確かだったが、首に輪の食い込んだエルフを見るたび指先が微かに震えた。ドリアは黙って鉄の鎖を一か所に集め、槌が振り下ろされるたびに鎖の輪が断ち切れた。
ラカンは捕虜たちの間を歩き、焼き印を押された狼の獣人の前で足を止めた。何も言わずに自分の首筋を見せると相手が顔を上げ、ラカンは水袋を差し出した。
ローゼンは生き残った者たちの数を数えた。
「六十三人です。歩けない人が十七人、治療を急ぐ人が九人。敵が戻る前に移動しなければなりません」
「道はありますか」
「北東の廃村まで行く短い道と、森を回る安全な道があります。負傷者を考えれば短い道を取るべきですが、追撃を防ぐ殿が必要です」
カン・ムジンは頷いた。
「私が残ります」
「俺も残る」
ラカンがすぐに言った。
「負傷者を守ってください」
「あんたの横も守らねえとな」
傷ついた脚は震えていたが、ラカンは引かなかった。
カン・ムジンは彼に折れた鎖の山を指した。
「あれを荷車に積んでください」
「鉄の鎖をなぜだ」
「農具に変えます」
ラカンが口をつぐむと、ドリアが髭を撫でた。
「鉄の値打ちはひどいもんだぞ。錆も多いし、不純物もたっぷりだ」
「折り返して取り除けばいいです」
「炭がたくさん要るぞ」
「伐る木は多いです」
ドリアの口角が髭の下で上がった。
「ゴホン。なら捨てる理由はないな」
子どもの指がカン・ムジンの手から離れた。子どもはひしゃげた首輪の方へ駆け寄り、それを両手で持ち上げたが、自分の体には重すぎるのか腕が下に垂れた。
「これも」
「それは捨てていい」
子どもは首を振った。
「わたしのだったの」
その言葉に、誰もすぐには答えなかった。
カン・ムジンは子どもの前に片膝をついた。
「名前は何だ」
子どもは口をつぐんだ。見慣れぬ問いを聞いた顔だった。
「呼ばれていた言葉があったでしょう」
シルヴァナが少し離れた場所から尋ねた。
子どもは首の跡を掻きながら短く言った。
「十三」
荷車の奥には数字の刻まれた鉄の札が落ちていた。十三。子どもの首輪にぶら下がっていた札だった。
カン・ムジンは鉄の札を拾い、指で押した。荒く打ち込まれた数字の溝が潰れて平らになった。彼は腰から小さな鏨を取り出した。
「新しく一つ刻もう」
「何を?」
カン・ムジンはしばし子どもを見た。炭の粉のついた顔と、切り落とされた鉄の輪を離さない手、怯えながらもすべてを見守る目が見えた。
「お前が選ぶ名前だ」
子どもはしばらく答えなかった。
遠く渓谷の南で角笛の音が再び鳴った。撤収した兵力が次の部隊を呼んでおり、長く留まることはできなかった。
ローゼンが人々を立たせる間、シルヴァナは森へ通じる道を開き、ドリアは荷車の車輪の軸を調べた。ラカンは負傷者を一人背負った。
子どもは動く人々を眺めていたが、カン・ムジンの袖を掴んだ。
「アイシャ」
「誰がそう呼んだ」
「知らない。夢で聞いたの」
丁寧な言葉とくだけた言葉が混じっていたが、声は前より明瞭だった。
カン・ムジンは鉄の札の上に鏨を当てた。槌がないので剣の柄尻で一画ずつ押し刻んだ。
アイシャ。
拙い字だったが、数字より深かった。
カン・ムジンは鉄の札の片隅に槌と金床を象った小さな刻印を加えた。彼が鍛えた品に残していた印だった。
「これでお前のものだ」
アイシャは鉄の札を受け取って両手で包んだ。
「奪われない?」
カン・ムジンは渓谷の南を見つめた。
土埃の向こうから微かな金属の群れが近づいていた。槍と甲冑、荷車よりもはるかに多くの蹄鉄だった。グリモアが算定した代替兵力がすでに動き出したようだった。
カン・ムジンは剣を持ち上げた。
「奪えはしない」
彼はアイシャをローゼンのもとへ送った。ドリアが槌を握り直す間、シルヴァナは残った矢を数え、ラカンは負傷者を荷車に乗せたあと、どうしてもとカン・ムジンの右側に立った。
解放された人々が森の道へ入り始めた。
カン・ムジンは道の真ん中に残り、折れた鎖を踏んだ。
鉄は嘘をつかなかった。この鎖がどこで作られたのか、どれほど多くの首を経てきたのかまでは分からなかったが、放っておけばまた誰かを縛る物になるということだけは明らかだった。
ならば溶かさねばならなかった。
鎖だけでなく、それを当然と考える秩序までも。
渓谷の向こうに黒い旗が姿を現した。
感想を書く