翌朝、プンは軒下でさえずる山鳥の声に目を覚ました。無底坑では眠りにつく前と目覚めたあとの闇が少しも違わなかったが、ここでは障子紙の向こうに滲む光を見るだけで朝だと分かった。見慣れぬ天井と、きちんと掛けられた布団をしばらく眺めていたプンは、まず指から確かめた。
金色の指輪は静まっており、銀色の指輪は相変わらず北へ向けて微かな脈を送り出していた。
窓を開けると、夜通し玄虚が張り巡らせておいた警戒の糸が目に入った。切れた箇所はなく、森にも怪しい気配は感じられなかったが、北の稜線の向こうには灰色の霧が低く垂れ込めていた。指輪が指し示すのがその向こうの人なのか、毒なのか、死の痕跡なのかは分からなかった。
「起きたなら顔から洗いな。粥が冷めちゃうよ」
戸の外からアヨンの声が聞こえ、プンが答えようとする間に、足音はもう台所の方へ遠ざかっていた。
庭の冷たい水で顔を洗って部屋に入ると、小さな膳の上に白粥と漬物が置かれていた。アヨンは自分の器を前にして座っており、玄虚は広げた布切れの上で昨夜の黒い棘を検めていた。棘の周りには薬材を砕いた粉が丸く撒かれていた。
「座れ。毒は飯を食ってから見ても逃げはせぬ」
プンが席につくとアヨンが粥の器を差し出し、ぶっきらぼうな表情とは裏腹に、プンの器にだけ松の実の粉が一匙多く載っていた。
「私が食べてもよいのですか?」
「じゃあ、見物させるために用意したとでも?」
プンは木の匙で粥をすくって口に入れ、柔らかく解けた米粒の間から香ばしい松の実の匂いが広がり、続いてほのかな塩気が舌先に残った。昨夜も温かい飯を食べたが、目を覚ましてすぐ誰かの煮た食べ物を受け取るのはまた別の心地で、水を汲み火を起こした手つきが粥一杯にそのまま残っているようで、喉の奥がわけもなく詰まった。
「なんでそんなにゆっくり食べるの? 美味しくない?」
「いいえ。もったいなくて」
アヨンが目を瞬いた。
「粥の何がもったいないのよ?」
「温かいので」
彼女はそれ以上尋ねず、代わりに漬物の皿をプンの方へ押しやり、自分の粥だけをかき混ぜた。玄虚も黙って黒い棘を布で覆った。
食事が終わると、三人は庭に出た。玄虚は黒い棘を毛抜きでつまんで日にかざしたあと、水に濡らした白い紙の上へ毒をごく僅かに削り落とした。黄ばんでいた紙が瞬く間に黒赤く変わった。
「血脈を固める毒だ。量は少なくとも、人ひとりを殺すには十分だな」
「どこで使われる毒ですか?」
「材料だけを見れば辺境でも手に入る。だが、これほど多くの毒性が互いを食い合わぬよう混ぜるには相当な腕が要る。並の山賊や狩人の持ち物ではないということだ」
玄虚は毒針を再び包んで小さな木箱に納め、続いてプンに手を出すよう言ってから、銀色の指輪の近くへ箱を近づけた。
指輪が低く震えた。
プンが指を縮めると、北を向いていた微かな引きが毒針の方へねじれ、木箱を遠ざけると方向は再び北へ戻った。
「毒を追っているようです」
「断じるには早い」
玄虚は木箱をアヨンに持たせ、東へ歩かせた。プンの指はしばらく箱を追って動いたが、アヨンが庭の端を過ぎると、北から伝わる引きが一層強くなった。異なる二本の糸が指の内側を引っ張るようで、プンは眉根を寄せた。
「両方とも感じます。近くにある毒針と、北の何かが別にあります」
「その何かも同じ毒かもしれんな」
「あるいは、毒にやられた人かもしれません」
プンの言葉にアヨンの足が止まり、彼女は手の中の木箱を見下ろしてから、慎重に口を開いた。
「ヤンガ村の近くで消えたっていう人たちのことだけど。まさか、その人たちにこの毒を使ったんじゃないでしょうね?」
玄虚はすぐには答えず、木箱を受け取った指で蓋を一度叩いてから、低く沈んだ声で言った。
「確かめもせぬ当て推量で動けば、探すべき者も見失い、待ち構える罠にもかかりやすい。まずはプンの指輪が何に反応するのかから調べてみようぞ」
二つの指輪を検めるに先立ち、玄虚はいくつかの条件を定めた。無理に外さぬこと、指輪の中へ内功を注ぎ込まぬこと、プンが異常を感じたら直ちに手を離すこと。前日、山で指輪が外の気を弾き返しただけに、小さな試みも軽々しくはできなかった。
細い木の枝で銀色の指輪の表面に触れたときは、何の変化もなかった。薬草を煎じた水と解毒の粉を一滴ずつ落としても同じだったが、毒針の入った箱を近づけると、銀の紋様の間を細い気が流れた。
「わしの気をお前の体の中へ入れはせぬ。手首の近くで流すだけゆえ、何が見えるか言ってみよ」
玄虚が二本の指を立てると、青みを帯びた細い気がその先に集まり、プンの目には澄んだ水の流れのような動きがはっきりと見えた。気が手首の一寸手前で円を描くと、プンはその筋を読み返そうとして、自分の気をごく僅かに引き上げた。
「お止まりください」
玄虚が手を引いたのと、プンが引き上げた力が抑えようもなく溢れたのは、ほとんど同時だった。
金色の波紋が虚空を打った。
丸く押し退けられた埃が庭を一巡し、玄虚は袖を振って勢いを流したが、後ろに置かれた水甕までは守れなかった。甕の表面にひびが入り、水が細い筋となって漏れ出した。
アヨンが両の目を大きく見開いた。
「触ってもいないのに、ああなったの?」
「私にも止められませんでした」
プンは割れた水甕に近づき、手のひらでひびを塞いだ。無底坑では岩を砕かずに押しのけ、飛びかかる山獣の骨を傷めぬまま倒す術を身につけた。だが、そのとき調節すべきだったのは、あくまで自分の力だった。
だが今、御さねばならぬ力はあの頃とは比べものにならぬほど大きく荒かった。糸一筋ほどだけ出そうとしても、庭の水甕ひとつすら無事に残せぬほど溢れ出した。
「私の力は、まだ自分の望むほど細くはなりません」
「ならば、その力を糸のように細く扱う術から身につけねばなるまいな」
玄虚は割れた水甕を検めながら髭を撫でた。
「生きた相手と手を合わせてみれば、物に向かってやるより力をずっと繊細に収められるじゃろう。物ばかり相手にしていては身につけにくかろうな」
「人を相手にしなければならない、ということですか?」
「打たれてみねば分からぬという話ではない。お前の力をどこまで細く収められるか、少しずつ見極めてみようという話じゃ」
門口に立っていたアヨンが二人を代わる代わる見てから、腰に手を当てた。
「手合わせすればいいじゃないですか」
プンが彼女を見ると、眉がすぐさま吊り上がった。
「何? 私が弱そうに見える?」
「そうではなく、怪我をするかもしれません」
「昨日、私の手首を掴んで人を袋みたいに引っ張ったのは誰だったかしらね?」
プンは言い返せなかった。毒の棘を避けさせようとしたことだったが、アヨンを地べたに座り込ませたことまで消えるわけではなかった。
玄虚はしばし考えたあと、庭の真ん中に木の枝で円を描いた。
「よかろう。ただし規則を定めよう。アヨンは喉と目、鳩尾を狙わず、内功も三割以上使ってはならぬ。プンは反撃せず、円の外へ押し出すか、手首を掴むことだけを許す」
プンが円の中へ入ると、アヨンも上着を脱いで縁側の手すりに掛け、袖をしっかり結ぶ顔からは朝のいたずらっぽさが消えていた。足を開いた幅はきちんとしており、前の手で顔を守りながら後ろの手の動きを隠す構えも、なかなか慣れて見えた。
プンが目に力を込めると、アヨンの丹田から起きた気が胸と肩を経て腕へ伸びた。爪先にも薄い流れが集まっていたので、どちらが先に動くかは手に取るように見えたが、見えるからといって問題が終わるわけではなかった。腕に集まった気は囮かもしれず、拳を出しかけて止めることもあり得た。
何より、アヨンを傷つけてはならなかった。
「始めよ」
玄虚の言葉が落ちるとアヨンが地を蹴り、前の手がプンの顎に向かってまっすぐ伸びてきて、プンは拳が届く前に手首を掴んだ。ほとんど力を使っていないつもりだったが、アヨンの体は急に止まって肩が大きく揺れ、彼女が痛みを堪えるように唇を噛む様子に驚いて手を離した瞬間、踵がプンの脛を蹴り上げた。
ドッ!
痛くはなかったが、アヨンの爪先を受け流そうとした瞬間、指先に乗った力は手合わせに使うにはとんでもなく大きく、それに気づいたプンは拳を背中に隠しながら、慌てて叫んだ。
「待ってください!」
アヨンが二歩下がり、金色の気は外へ弾け出なかったが、プンの足元の土が蜘蛛の巣のように裂けていた。
庭に短い沈黙が下りた。
「続けられるか?」
玄虚が尋ねると、プンは答える代わりにアヨンの右肩から検めた。彼女は掴まれた手首を後ろに隠しており、その周りの気脈は微かに捻れていた。
「それより、手首は大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。これくらいで大げさにしないで」
「気が塞がっています。右腕を上げれば痛むはずです」
アヨンが試すように腕を上げかけて、顔をしかめた。
「それが分かってて、あんなに強く掴んだの?」
「強く掴んでいないと思っていました」
「その思い込みからして間違ってるじゃない」
もっともな言葉だった。プンは山獣の体がどれほど頑丈で、どの関節を押せば傷つけずに均衡を崩せるかを知っていた。人は違った。欺きもすれば迷いもし、意地のために痛くても再び飛びかかってきた。力の流れだけを読んで心の動きを見落とせば、傷つけまいとした手が、かえって傷を作りかねなかった。
プンが円の外へ出ようとすると、アヨンが尋ねた。
「どこ行くの?」
「今日はやめたほうがよさそうです。私はまだ、人と手を合わせる備えができていません」
「私の手首ひとつ掴んで、怖気づいたの?」
「手首ひとつで済んだから止めるのです。次は一つで終わらないかもしれませんから」
アヨンは口をつぐみ、プンは玄虚が自分を止めるだろうと思ったが、玄虚は髭の先を撫で下ろすだけだった。
「やめるのも選択だ。ただし今退けば、何が間違っていたかは分かっても、直す機会は得られまいな」
プンの足が止まった。
「アヨンの攻撃を拳と足だけで見るでない。息が変わる時、視線が留まる場所、傷めた腕を隠す仕草まで、すべてが動きの一部だ。お前の目に気脈が見えるならそれに頼りたかろうが、人は気の流れるままにだけ動く存在ではないのじゃ」
プンは、手首が痛むのに足を繰り出したアヨンを思い浮かべた。気の道は見えたが、彼女が下した選択までは読めなかった。
「もう一度だけやります」
アヨンは手首を揉みながらも、円の中へ戻ってきた。
「今度また吹き飛ばしたら、水甕はあんたが作り直すのよ」
「もともと、ひびが入っていました」
「口答えしないの」
口角がほんの少し上がったのを見て、ようやくプンは肩の力を抜いた。
二度目の手合わせで、アヨンは傷めた右手を前に出したままゆっくり間合いを詰め、プンの目には左足に集まる気が見えたが、彼女の視線は金色の指輪に貼りついていた。プンが一歩下がると、アヨンは予想より深く踏み込んで右手で袖を掴み、肘を引く瞬間に左足で土を蹴り上げた。
埃が視界を覆った。
気脈の光が霞んだ隙にアヨンが身を低くして横から入り込み、プンは目で追う代わりに、袖を掴んだ手の震えと足元から伝わる重みを感じた。彼女が右へ回り込もうとする刹那、同じ方向へついて回ると、アヨンの力は虚空へ流れた。
プンは彼女の腰の後ろに手のひらを当てたが、押しはしなかった。方向だけを塞ぐとアヨンは自分で止まる場所を失ってよろめき、円の外へ倒れる直前に、襟を軽く掴んで立たせた。
「掴んで立たせてどうするの? 外へ出さなきゃ、あんたの勝ちにならないのに」
アヨンは息を整えながら文句を言ったが、表情はさっきよりずっと柔らかかった。
「倒れたら、また怪我をしそうでした」
「手加減するなって言ったでしょ」
「勝つのが目的ではないと仰いました」
プンが玄虚を見ると、玄虚が低く笑った。
「わしの言葉を、なかなか上手く使いおるな」
アヨンはつんと背を向けたが、プンが差し出した手を避けはしなかった。プンが塞がった気脈の周りに指先を軽く当てると彼女の肩がびくりとしたが、プンの指先は揺れもなく静かだった。アヨンに脅威と呼べるものがないことをとうに読んでいた彼は、気脈の流れより先に、彼女が接触を許したという事実を受け入れた。
玄虚が近づいて、プンの手首を検めた。
「さっきよりずっと綺麗に力を収めておるな。お前の心に従ってくれる所が出てきたらしい」
「まだ、思うままに綺麗には収められません」
「一日で手懐けられたなら、古代の器物などとは呼ばれておるまいよ」
今度は玄虚がプンの向かいに立った。彼の気は穏やかだが広く、腕にも脚にもどこにも力が偏らぬまま、体全体が一つの流れのように繋がっていた。気脈を見てもなお初手を測りかねる相手は、初めてだった。
プンが慎重に先に踏み込んだ。拳が届く前に止めるつもりだったが、玄虚は半歩逸れながら袖で腕の甲をかすめ、力を横へ流したあとは隙を見せなかった。速くもないのに、プンが触れようとする場所には毎回、何も残っていなかった。
三度目に手を伸ばした瞬間、玄虚の手のひらがプンの胸へ向かった。殺気も威圧感もなかったが気は重く精巧で、プンはその筋を指先でそっくり読み取った。
プンは指先に乗ろうとする力を糸一筋ほどだけ残して、玄虚の腕の内側へ入り込んだ。手首を捻らず、肘に指先だけを当てて流れを上へ押すと玄虚の掌力は虚空へ向かい、プンのもう一方の手は老人の胸の一寸手前で止まった。
その瞬間、玄虚の二本の指もプンの喉元の前に来ていた。
二人は同時に手を収めた。
「私の負けですか?」
「互いに殺すつもりであったなら、どちらも安らかには終わらなんだろうな」
玄虚は袖を払いながら退いた。顔から笑みが消えていた。
「わしの動きが見えたか?」
「気の流れる道は見えました。初めはどちらへ動かれるか分かりませんでしたが、アヨンと手を合わせながら、息と目、足が地を踏む形まで併せて見なければならないと学びました」
「それだけでわしの変招を読んだと?」
プンはしばし躊躇ってから、首を横に振った。
「すべてを読んだわけではありません。最後は、わざと道を開けてくださったように思います」
玄虚の目尻が細くなり、彼はプンの指にはまった二つの指輪と、庭に残った足跡を順に検めてから、低く言った。
「お前の目が見るものを、他人にみだりに話すでないぞ」
「なぜですか?」
「江湖には、優れた才を貴ぶ者と同じくらい、奪うか消そうとする者も多いからだ。相手の気脈を読むと知られれば、お前を欲しがる門派が現れようし、自らの武功を見破られるのを恐れる者も出てこよう」
プンは、北へ向かって細く脈打つ銀色の指輪を見下ろした。今ひとりで発てば、誰が後を尾けているのか、出会った者が助けを求めているのか、それとも罠へ導いているのかを、きちんと見分けられない見込みが高かった。
力が足りないからではなかった。
人を知らなかった。
「指輪に関する記録は、もう数日探してみよう。その間に今日身につけたことを振り返れば——」
「数日より長く留まってもよろしいでしょうか?」
玄虚の足が止まり、アヨンも冷水に浸した布を手首に当てかけたまま、プンを見つめた。
「私は広い世を見たいのです。二度と一箇所に閉じ込められたくなくて無底坑を出ましたし、昨日までは指輪のことを突き止めたら、すぐ発つつもりでした」
プンは裂けた庭と、ひびの入った水甕と、アヨンの赤くなった手首を順に見つめた。
「ですが、どこへでも行けるということと、どこへ行くべきかを知っているということは、違うようです。今日、私は力を抑えられずアヨンを傷つけ、守ろうとしてアヨンの選択を信じられませんでした。ひとりだったら、何を間違えたのかも分からなかったでしょう」
アヨンは唇を動かしかけたが、口を挟まなかった。
「指輪を御する術だけでなく、人と手を合わせる術、江湖で誰を信じ、何を警戒すべきかも学びたいのです。北の件も、目を背けたくありません。私が発つ時を他人に決めさせず、自ら備えができたと判断するまで学びたいのです」
玄虚はしばらくプンを見つめた。深くなった目元にいくつもの感情がよぎったが、プンはその意味までは読めなかった。ややあって、玄虚が髭を撫でながら頷いた。
「学ぼうとする者を追い出すほど、この家は狭くはない。ただし、わしの教えはお前が思うより退屈で辛かろうぞ」
「無底坑で五年を耐えました」
「ほっほ、わしの小言は無底坑より深いかもしれぬぞ」
傍で聞いていたアヨンが、がばりと立ち上がった。
「えーっ? こいつがもっと居るんですか?」
驚いた声とは裏腹に、口元には薄い笑みが浮かんでおり、プンと目が合うとアヨンは慌てて表情を引き締め、傷めた手首を差し出した。
「なら、水甕から直して。私の手首も、あんたが治しなさいよ」
「水甕は私の力が割ったのですが」
「その力が、あんたの手から出たんでしょ」
プンはしばし考えてから頷いた。間違った言葉ではなかった。
日が山の稜線の向こうへ傾く頃、プンは薬を塗った布でアヨンの手首を巻いてやったあと、ひびの入った水甕の前にしゃがみ込んだ。漏れる水は空けたが、裂けた隙間は思ったより長く、指で表面をなぞるたびに、昼間に飛び出した金色の気が通った跡がはっきりと感じられた。アヨンは片手で水甕を支えながらも、結び目が固すぎるだの、土が緩すぎるだのと小言を添えた。
「プンや、しばし入ってまいれ」
部屋の中から聞こえた玄虚の声に、プンは手についた土を払って立ち上がった。敷居を越えると、灯明が小さな膳の上を照らしており、その真ん中には、先を鈍く研いだ針が一本置かれていた。
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