プンが顔を上げたその場所には、すでに一人の老人が立ち、プンをまじまじと見つめていた。老人の目元に、ごく短い驚愕がかすめた。世に出てきたばかりの少年の体から、長く生きた高手でさえ容易には測りがたい深い気が、静かに流れていたからである。見た目には垢抜けない子どもであったが、その内に淀んだ力は、すでに化境の壁を軽々と越えていた。
いつ近づいてきたのか、気配さえまともに掴めなかった。遠くから近づいてくるのは確かに感じたのに、いつの間にか目の前だった。プンは内心驚いた。五年の間、山の獣の動きひとつ見逃したことのない自分だった。
ところがこの老人は違った。まるでもとよりその場に在った一本の古木のように、いかなる気配も漏らさぬまま立っていた。プンは本能的に、相手が並の者ではないことを察した。
プンは薬草を採っていた手を止め、ゆっくりとその場から立ち上がった。その静かな眼差しだけでも、軽々しく接してよい相手ではないとわかった。
どこから来た老人だろうか。こんな深い山中、それも人の足の届かぬ崖の下に忽然と現れられる者ならば、決して並の人物ではなかった。プンは薬草の籠をそっと背後に下ろし、万一に備えて脚に静かに力を込めた。
五年ぶりに向き合う人だった。それゆえかプンは、懐かしさよりも緊張が先に立った。どう挨拶を交わすべきか、何から言い出すべきか、おぼろげだった。人と相対する術を、プンはいつの間にか忘れてしまったらしかった。
老人は白髪を端正に梳き上げ、古びてはいるが清らかな道袍をまとっていた。眼光は深く、炯々としていた。
「おお、不思議な子じゃのう。身法は確かに相当な高手であったのに、どうして気の構えはこうも平凡なのじゃ?」
老人がプンを上から下まで見回しながら呟いた。プンはその言葉の意味がわからず、ただ薬草を握ったままぼんやりと立っていた。
「……わたしのことでしょうか?」
ところが老人はプンの答えを聞くともなしに、何かを深く考え込んでいるようだった。プンはどうしてか、警戒を緩めることができなかった。
その瞬間だった。老人の眼光が突然ひらめくと、プンに向かって片手を伸ばした。柔らかなようでありながら、見えない重々しい何かがプンに向かって押し寄せてきた。
ところが奇妙なことが起こった。老人の手が、そしてその手を伝って流れるある気が——まるでゆるゆるとうねる川の水のように——プンの目にはっきりと見えるのだった。
地の中で自分の体を覗き込んだときに見えていた、まさにあの流れだった。それが今度は他人の体から、しかもこれほど鮮明に見えたのである。
プンは思わず息を飲んだ。自分の体でなく他人の体でも気の流れが見えようとは、ただ一度も考えてみたことがなかった。五年の間、自らの内ばかりを覗き込んでいたその目が、いつの間にか外の世界まで見通し始めたのだった。
しかしその驚きを噛みしめる間もなく、老人の掌(しょう)はすでに目の前まで迫っていた。
『あの気が……あちらへ流れていくんだな』
プンは考えるまでもなく、その流れの先を外して、わずかに横へ身をひねった。老人の掌が、少し前までプンのいた場所を重々しくかすめていった。背後の岩がばらばらと崩れ落ちた。直に受けていたらどうなっていたか、考えるだけでも眩暈がした。
それは五年の地中修練がプンに抱かせた、何とも換えがたい宝であった。相手の気がどこへ流れるかを先に見る目。その一つだけで、プンは自分よりはるかに上手の高手を相手にしても決して容易な相手ではなかった。
老人の目がわずかに見開かれた。やがてその手が奇妙に折れ曲がると、向きを変えて再びプンを狙った。初めよりも一段と速く鋭い変招だった。常人であれば目で追う前にやられていただろう。
しかし今度もプンの目には、その流れが先に見えていた。どこへ伸びてくるかが明らかに見えるのだから、恐れるものはなかった。プンは避ける代わりに流れの内側へ踏み込んだ。老人の腕を上へ軽く打ち上げたあと、その胸に拳を三度あてた。傷つけるつもりはなく、力をうんと殺した手だった。
それでも老人は胸を押さえて後ろへずるずると押しやられ、木に背を預けてようやく身を支えた。口元から赤い血が一筋流れ落ちた。
老人は自らの胸を押さえたまま、しばらく言葉を継げなかった。化境(化境)に至った身であった。並大抵の絶頂高手の一撃くらいは襟ひとつかすめもしない境地であるのに——たかが少年の拳三発に、こうもなすすべなく押しやられるとは。老人の目に、驚愕と興味が同時に揺らめいた。
「ごほっ……ほほ。不思議な子ではなく、わしより上手だったということか? これはもう、一生で味わう驚きを今日一日で味わい尽くすわい」
「わしが武功を修めて早六十年じゃ。絶頂の高手とも数多く手を合わせてきた。じゃが、おまえのようにわしの招式を『前もって知って』動く者は……まことに初めてよ。いったいどうやったのじゃ?」
プンは何と答えるべきかわからなかった。ただ気の流れる道が目に見えただけだと、それをどう説明しろというのか。プンは口を閉ざすしかなかった。
プンはそこでようやく我に返り、慌てて老人に近づいた。
「だ、大丈夫でございますか? ご老人が先に手を出されたので、わたしも思わず……」
「よい、よいのじゃ。この老いぼれが自ら招いたことゆえ。……ところで子よ、もう一つだけ訊いてもよいかの?」
老人が袖口で口元の血を拭いながらプンを見上げた。その目には怒りよりも好奇心が満ちていた。
プンは、老人が本気で自分を害そうとしたのではないことをおぼろげに感じた。本当に殺す気であったなら、あの最後の掌にはもっと荒々しく濁った気が乗っていたはずだった。流れを読むプンの目は、相手の手に込められたその『心』までおぼろげに映し出してくれていた。
「ご老人はどなたで、やぶから棒にわたしへ手を出しておいて、問いを投げるとおっしゃるのですか?」
「ほほ、すまぬことをしたのう。わしがおまえに掌を放ったのは害そうとしたのではなく、おまえがどんな武功を修めたのか見極めようとしたのじゃ。遠くからおまえの身法を見てとんでもない高手が現れたと思うたのに、近くで見ればこんな幼い子が立っておるのだから……わしは自分の目を疑うたわ」
「それに、おまえが繰り出したあの歩法や身法は、わしの知るどの門派のものでもない。ゆえにますます気になるのじゃ。いったいどの門派の弟子なのじゃ?」
プンはしばし言葉に詰まった。門派とは。そんなものがあるはずもなかった。しかもこの老人が善い人か悪い人かもわからなかった。生まれて初めて出くわす状況の前で、プンはたやすく口を開けなかった。
「子よ、もしわしを警戒しておるのならその必要はない。わしはこうして老いてはおるが、若いころは江湖で義(ぎ)と俠(きょう)をもってなかなか名を馳せたものじゃ。どこへ行っても玄虚という名を出せば、わしが出来合いの人間でないことはすぐにわかるはずじゃ」
玄虚という名にも、プンには思い浮かぶものがなかった。それだけでなく、プンには今しがた老人が口にしたその言葉自体がもっと耳慣れなかった。
「ところでご老人、先ほどからおっしゃっているその『江湖』というものは……いったい何なのですか?」
プンが慎重に問うと、玄虚の目がもう一度丸くなった。しばらくぽかんとプンを見つめていた老人は、やがて苦笑を漏らした。
「ほう、江湖とは何かと訊くのか? 武功でこの老いぼれを倒した子が、肝心の江湖が何かを知らぬとは? ……これはますますわからぬ子じゃのう」
玄虚はしばらくからからと笑ってから、やがて真顔になってプンを見直した。笑みの引いたその目には、もはや単なる好奇心を越えた何かが宿っていた。これほどの素質を持ちながら江湖が何かさえ知らぬ子とは。もしかするとこの子は、自分が生涯に出会ってきた誰とも違う器なのかもしれなかった。
「江湖というのはな」玄虚がゆっくりと口を開いた。「武功を修めた者たちが交わって生きる、もう一つの世じゃ。義(ぎ)を追う正派があり、私(わたくし)の力を追う邪派があり、その間をさまざまな因縁と恩怨(おんえん)が川の水のように絡み合って流れておる。おまえが持つその武功であれば、好むと好まざるとにかかわらず、遠からずその世に足を踏み入れることになるであろう」プンはその言葉を半分も理解できなかったが、どうしてか胸の片隅がわけもなく高鳴った。
「それは次第に教えてやろう。まずは、その曰くありげな師匠の話から聞かねばならぬがな」
「……師匠については、何と申し上げるのが難しいのです。本当なのです」
プンはまた一度詰まった。師匠といえば……あの指輪だった。しかしそれをどう口にしろというのか。
『指輪が師匠だと言ったら、狂った奴扱いされるのがお似合いだろうな』
老人はしばしプンをまじまじと見つめたが、それ以上は問い詰めなかった。何か深い事情があることに気づいたらしかった。
「ほほ、そういうことか。ではおまえの名は何じゃ? それも言いにくいかの?」
「プンです。姓は段(タン)で。タンプンと呼んでくださればよいです」
「タンプンか……良い名じゃのう」
玄虚はあらためてプンを上から下まで見回した。その眼差しには、プンへの好奇がありのままに宿っていた。これほどの子を育て上げた師匠がいったい誰なのか、まるで見当がつかぬという顔だった。
実のところ玄虚には、単なる好奇心以上の何かがあった。生涯を武道(ぶどう)に捧げた老人であった。そんな彼の目に、この少年の持つ素質は百年に一度出るか出ないかという器と映った。このまま行かせてしまうには、あまりにも惜しい子だった。
「タンプンよ。今どこへ行く途中じゃ? 急ぎの道かの?」
「いいえ。特に定めた所はありません」
「それならばな。この老いぼれの住まいで飯でも一膳食ってゆかぬか? 傷つけるつもりはなかったとはいえ、ともかくおまえに手を出したのじゃから、その謝りに飯を一膳もてなしたい。どうじゃ?」
プンはしばし迷った。しかし老人の口ぶりには妙に人を引きつけるところがあり、何よりプンは、五年ぶりに出会ったこの『人』が嫌ではなかった。しかも先ほど見たあの流れの正体を、もしかするとこの老人は知っているかもしれなかった。
何より、温かい飯一膳という言葉がプンの心を揺らした。五年を生の肉だけで凌いできたのだ。湯気のもうもうと立つ飯一杯を思い浮かべると、プンは思わずごくりと唾を飲み込んだ。
五年ぶりに味わうことになる人の飯、そして人の情であった。それが何よりも、プンの足取りを引き寄せた。
「……では、厚かましくもお世話になります」
プンがぺこりと頭を下げると、玄虚は満足げに大笑いを漏らした。
「そうじゃ、そうじゃ。よく考えた。行こうかの。この老いぼれの住まいはここからそう遠くないゆえ」
そうしてプンは、江湖に出て初めて結んだ縁に従って足を運んだ。五年の闇を越えて初めて届いた陽の光の下で、少年の内に眠る力が静かに息を整えていた。
二人の背後に、だんだんと傾いていく陽が長く影を落とした。薬草採りの少年タンプンの長く長い江湖行(こうこぎょう)が、そうしてようやく第一歩を踏み出していた。
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